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【パチンコ業界の基礎知識】“正村ゲージ”について

2023.04.11

皆さんは正村竹一という名前を聞いたことがありますか? 現在のパチンコ業界の繁栄は、正村竹一が開発した“正村ゲージ”があったからと言っても過言ではありません。この“正村ゲージ”がパチンコの全国的なブームを巻き起こすことになります。 この記事では正村竹一の略歴や“正村ゲージ”を解説いたしました。ぜひ参考にしていただけたらと思います。

 

 

<正村竹一について>

“正村ゲージ”の考案者。パチンコの父と称されています。

1906年9月5日。岐阜県稲葉郡茜部村で生まれました。

1927年、名古屋市西区江川横町にガラス商として『正村竹一商店』を開業します。そしてパチンコ台のガラス盤面を依頼されたことがきっかけで、パチンコ店も営むようになりました。その後ガラス業は廃業。

1946年、戦争により中断していたパチンコ店の営業を再開します。当時の税務所資料によると、従業員ゼロ・家族7名・20台で営業とあるそうです。

1948年、パチンコ機の試作に取り組み“正村ゲージ”が完成。

1949年、“正村ゲージ”を配したパチンコ機の製造・販売も手掛けるようになります。

 

<正村ゲージとは>

ゲージとは釘の配列・構成のことです。これまでのゲージは釘の本数や入賞口が多く、バラ釘のみの単純な構成でした。そのため玉の動きが単調で大人はすぐに飽きてしまっていたのです。

そのような中、1948年に正村竹一は独自のゲージを開発します。これが“正村ゲージ”と呼ばれるものです。

 

◇魅力①

正村は釘本数や入賞口を減らし、天釘・ヨロイ釘・ハカマなどの釘を使って釘構成に変化をつけました。また風車やベルを導入します。これにより盤面に空間ができ、玉の動きが複雑で躍動的なものになったのです。

 

◇魅力②

玉が最初にぶつかる天釘やそのあとの風車により、玉の動きがトリッキーになりました。さらに入賞口の手前にたどりついても、命釘が立ちはだかり玉が弾かれてしまいます。そのため玉の動きが誰にも予測できないものになったのです。

 

◇魅力③

風車が配置されていることにより、狙いを定めて打てる場所が限定的になりました。このことで打ち手は“無我無心”になるのです。この感覚が当時、画期的であったと言われています。

 

こうして“正村ゲージ”のパチンコ機は大変な人気を集め、正村が経営するパチンコ店は連日大盛況となるのです。

 

<全国的広がり>

正村竹一は1949年、正村ゲージを配したパチンコ機の製造販売も手掛けるようになります。その結果、正村のパチンコ機を買い求める業者が毎朝開店前に列を作るようになったそうです。

 

“正村ゲージ”の魅力に加え、正村のパチンコ機は頑丈であるという評判も人気の秘密でした。

当時の台は木製であったため湿気で台が歪んだり、客が当たり率を上げようと力づくで台を傾けたりしていたのです。しかし頑丈な正村の台はそれらを防ぐことができたので、多くのパチンコ店から信頼を得ることができました。

 

また正村が“正村ゲージ”の特許申請を行わなかったことから、他の遊戯機メーカーも正村式パチンコ機を大量に生産するようになります。その結果、“正村ゲージ”のパチンコ機は瞬く間に全国に広がっていきました。※そして名古屋は全体の8割を生産するパチンコ機の一大生産拠点となるのです。

 

正村が特許申請をしていれば正村自身は巨額の富を得ることができました。その一方で、パチンコ業界が現在の巨大産業に発展することはなかったのではないかとも言われています。特許を取らなかったからこそ、正村のパチンコ機が全国に普及したと考えられているのです。特許を取らなかったことに関して正村自身は「みんなで仲良く使うがええがや」という言葉を残しています。

 

こうして“正村ゲージ”のパチンコ機が起爆剤になって、パチンコの大ブームが巻き起こっていくことになります。1951年、あまりの人気に警視庁が「パチンコの遊び方」を発表し、全国的に18歳未満のパチンコが禁止されることになりました。しかしブームは衰えることなく、パチンコは巨大産業へと発展していくことになるのです。

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